忘れられる権利の話で、検索結果の削除を認めない理由として殆どのアメリカ人が表現の自由について触れていたと書きました。
それほどまでにアメリカ人が大事にする、(特にインターネット上の)表現の自由とは何なのでしょうか。
検索エンジンの享受する表現の自由について、昨年NYの連邦地裁の決定が出ていますので、雑談の続きとしてまずこちらを紹介します。
Zhang et al v. Baidu.com Inc. et al
事案の概要(ざっくり):
ジャーナリスト8人が、自分たちの書いた中国における民主化運動や、天安門事件やジャスミン革命に関する記事・ビデオ等が、GoogleやBingの検索結果には表示されるのに、中国の検索エンジン最大手百度(BAIDU)の検索結果から意図的に排除(検閲)されているとして、2011年、BAIDUと中国政府を相手取って1600万ドルの損害賠償を求めた事件(中国政府に対する訴えは2012年に取下げ。決定によると訴状等が送達できなかったらしい・・)。
請求原因は多岐にわたりますが、基本的には、市民基本権(civil rights)侵害。
論点は、検索エンジンの検索結果は、表現の自由の保障を受けるかどうか。
決定(要旨)(2014年3月28日):
検索エンジンの検索結果の表示は、連邦憲法修正第1条の表現の自由の保障を受ける。
修正第1条によれば、私人は、公共の利害に関する事項について、編集判断(Editorial Judgment 注1)を行うことができるのであり、政府はこれに介入できない。
修正第1条により、検索エンジンによる検索結果は、全てとは言わないがほぼ全ての民事責任及び政府規制から自由でなければならない。
検索エンジンの主たる目的は、インターネット上の膨大なデータの中から関連する情報を拾い集め、検索者の便宜に適うように結果をリストアップする点にある。その過程で、検索エンジンは、必ず、検索結果に何を含め、どの順序で表示するかについて、取捨選択の判断を行う。これは新聞社等の編集権(Editorial Judgment)の行使と全く同じである。
検索を実行するためのアルゴリズムは、それ自体、人間によって書かれたものであり、本質的に検索エンジン会社のエンジニアの判断を組み込んだものである。
検索エンジンが検索結果を表示するために第三者の提供した素材を選択しリストアップするにあたっては、修正第1条の完全なる保障を受ける表現活動を行っているのである。
訴え却下。
(注1) Editorial Judgment、Editorial Discretion(編集権の行使、編集の自由)といったワードは、以下で何度も書くと思います。
ということで、検索エンジンの表現の自由という比較的新しい問題についてのほぼ初めての裁判は、検索エンジン側の完全勝利に終わりました。
基本的にこの判旨は他の検索エンジンにも妥当するでしょうし、純粋な検索エンジンのみならず、一定のアルゴリズムに基づいてなされる検索結果表示が重要な意味を持つ、例えばアマゾンやアップルのApp Storeなんかのビジネスにも当てはまる可能性があると思われます。
また、いわゆる忘れられる権利というか検索結果によるプライバシー侵害の裁判との関係ですが、その手の裁判は、検索結果表示がプライバシーや名誉等の人格権に対する積極的な侵害行為だという主張が前提ですので、このBAIDU事件のような検索結果として表示されないのがおかしいという場面とは結構状況が違います。もっとも、あくまで一般論としてですし、そもそも米国でそのような訴訟が起こるかすら分かりませんが、検索エンジン側として、「検索エンジンは機械的・無意識的に情報をさらって表示するだけの導管です」「主体的な表現行為はしていません」というような反論はしにくくなるのかもしれません(この辺のことは当然文脈や事件の背景で異なってくると思いますが。)。
このように、個人的には比較的すそ野の広い重要な先例だと思うのですが、米国でも、そして多分日本でも、あまり報じられていないような気がします。
(昨日のサンフランシスコ)
さて、このBAIDU事件で、原告たちは、このような検索エンジンの表現の自由の問題について、どのように戦い、どのように裁判所を説得しようとしたのでしょうか。
この原告らの主張、というか、より正確には今回NY地裁が決定の中でどのように反対説を扱ったのかという点を見ていくことは、とりもなおさず、手厚いと言われる米国の表現の自由に関わる判例形成の一側面をさかのぼって見ていくということになりそうです。
少し違う言い方をすると、このBAIDU事件の決定は、米国の表現の自由の判例の系譜を、正統に受け継いだ内容だといえると思います。
検索結果表示が享受する表現の自由の保障のレベルは低い、とする論拠(として考えられるもの)
まずは1994年の最高裁判例、Turner Broad. Sys., Inc. v. FCCです(注2)。
(注2) BAIDU事件の原告らは(おそらく意図的に)この判例を引用していなかったようですが、NY地裁はドッシリ論じています。決定によると、学界で、Turnerに依拠して検索エンジンの表現の自由の保障の程度を下げる説があったもよう。
事案の概要(ざっくり):
当時のケーブルテレビ消費者保護法は、ケーブルテレビ会社に、チャンネルの一部をローカルTV放送局に割り当てることを義務付けていた(Must-Carry規制)。これがケーブルテレビ会社の表現の自由を侵害して無効だという訴訟。
Kennedy判事による判決(要旨):
ケーブルテレビ会社は、どの局又は番組を採用するかについてEditorial Discretionを行使しているのであり、これに表現の自由が保障されるものであるが、
(1) 導管理論
ケーブルテレビ会社は、他人の言論(番組)を、手を加えずに継続的に視聴者に送信する単なる導管(Conduit)に過ぎない。
(2) ボトルネック理論
ケーブルテレビ会社と契約すると、契約者は、特定の放送局の番組を事実上視聴できなくなる。つまり、ケーブルテレビ会社は、ある番組をサービス内容から排除することによって、事実上、契約者に、その排除した番組を視聴できなくすることができる、という独占的な(ボトルネック的)地位にある、という状況がある(注3)。政府が介入してやらないとテレビ局が潰れちゃう。
(3) 規制が内容中立的である(注4)。
以上の理由から、ケーブルテレビ会社の表現の自由は、厳格な基準ではなく、内容中立規制に適用される中間的な審査基準で審査する(やや低い表現の自由の保障しか与えられない)。
結論として、Must-Carry規制は合憲(注5)。
(注3) アメリカ人がCable Cableってよく言ってても筆者は(自分もコムキャストと契約しているくせに)ケーブルテレビが何なのかいまだに分かり切れていないきらいがありますが、アンテナで直接受信するのではなく、有線で、各家庭等に番組を届けるサービスで、提供チャンネル数が非常に多いヤツ、というと正解に近いでしょうか。ともかくここで重要なことは、ケーブルテレビ会社は、契約者にどんな番組を提供するか選択でき、もともとは無料で見られるはずの地元の放送局の番組を選択しないことにより、事実上契約者にその番組を見られなくすることができる(≒という独占的な(ボトルネック的)地位にある)ということです。背景には、国土が広大で地上波が届かないなどの理由によりケーブルテレビに頼らざるを得ない人たちが多数いるという事情と、ケーブルテレビ会社と放送局は、広告料収入を巡り競争関係にあり、ケーブルテレビ会社には「地元放送局の番組を映らなくすることでその分自分たちの広告料収入をアップさせよう」というインセンティブがはたらいてしまうという事情があります。
(注4) 一般に(日米問わず)、言論に対する規制であっても、内容に着目した規制は特に厳格に判断され、内容に着目しない規制(内容中立規制)はそこまで最高度には厳しく審査しなくてもよいというのが前提としてあります。例えば、「政府を批判する内容の新聞を発行してはならない」というのは内容規制で、「夜XX時以降は拡声器を使ったデモをしてはならない」というのは内容中立規制ということになります。もっとも、時によりその区別は困難です。いちいち脚注が多くてすみません。
(注5) 正確には、94年の最高裁で差戻し、その後97年に再び最高裁で合憲判断(Turner Ⅱ)。Turner Ⅱでも、5対4の僅差で合憲となっています。少数意見は、このMust-Carry規制は内容中立規制じゃない、内容規制だ、という意見を一つの柱としていたようですが、割愛。
(Justice Kennedy)
しかし、BAIDU事件のNY地裁は、以下のとおり、Turner判例に基づく立論を否定します。あくまで事例判断的なロジックにとどまっているようである点は差し引かなければなりませんが、明解です。
まず、理由(1)については、少なくとも、原告ら自身が、「中国の民主化の支持者の記事等を恣意的に排除している」と主張しているじゃないかと。だとすれば、BAIDUが意識的にEditorial Discretionを行使していることは争いがないでしょうと。そうすると、導管理論は採用できないと。
次に、理由(2)については、これまた原告ら自身、GoogleやBingでは原告らによる記事が検索結果に表示される(のにBAIDUでは一切表示されないからオカシイ)と主張しているじゃないかと。つまり、BAIDUが特定の政治的見解に立つ記事等を検索結果から排除したとしても、他の検索エンジンを使えば、中国の民主化を支持する記事等は十分にインターネット利用者に届けられるのであって、その点はTurner事件の前提事実と異なる、ボトルネック理論はあてはまらないと。
最後に、理由(3)については、少なくともBAIDU事件の原告らの主張を認めると、結果として、特定の表現内容に着目した裁判所の介入を許すことになるでしょう、だから採用できないと。
Turner判例は、メディアの言論の自由を制約する理屈を打ち出したという点で重要な判例だといえますが、特にBAIDU事件のNY地裁によるボトルネック理論(理由(2))に関する判示は、ケーブルテレビ会社に対する規制についてのTurner判例が、インターネットの検索エンジンに適用される可能性を大きく否定するものとして、重要だろうと思いますし、またこの後書きたいと思いますが、これまでの米国の裁判例にも沿うものです。
以前ご紹介した、Googleによる、EUでの忘れられる権利判決に対する整理の中の「(全世界的な検索結果削除の先例を作ることは)抑圧的な政府による、ひどく検閲のされた検索結果しか手に入らない世界にユーザーを閉じ込めるのに利用される」というコメントが想起されます。一説によると世界第3位(?)中国のシェア8割(?)の一大検索エンジンBAIDUとはいえ、例えばケーブルテレビ会社のようなボトルネック的な(準独占的な)力まではないということです。
他の検索エンジンによる代替的なチャネルがあるということ、そして複数の検索エンジン間の「競争」があるということは、経済的にも、民主主義的にも、とても重要なことなのかもしれません。
BAIDU決定、そしてインターネット上の媒介者(Internet Intermediary)と表現の自由の関係等について、また書いていきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
最後に、米国の表現の自由に関する本として、『「表現の自由」を求めて―アメリカにおける権利獲得の軌跡』(奥平康弘)は、(少し古いですが)あんまり法律臭くなくて、面白かったです。ご紹介まで。